「石堂山」〜「樋口山」
4月30日

少し 話が 逸れますが


西米良の「一ツ瀬ダム」 九州で一番大きなダム

「大型のへらぶな釣り」では、全国的に有名な所 関東 関西から 連泊で 訪れます。

私らも 10数年前は よく 来て 「村所」の 民宿に泊まっていました。


その釣り場、流れ込みの 場所  「小川」  「銀鏡」(シロミ) は なじみの場所

よく 見ると 「天包山」 すぐ 側だったのですね。 


この碑の 説明を読みながら

つい、当時の状況と その場所を 頭で描いていました。

静かな山の中にも 歴史が ありました。 

登山口の 「西南戦争之碑」

後ろに 説明がありました。


(少し 省略)

ここで また、ほっと しました。

「霧島六社権現」

山馬鹿さんから 送って頂いた 地図

米良三山 (市房山 天包山)の一つ

4月29日 山開きの案内板が いたるところに ありました。

14時40分 下山 しました。


林道を走りながら 「天包山」の 案内板があります。 

「米良三山」 それではと 「行ってみましょうか」と。



私の場合 登り終えて ホットしたところ  もう、歩けない  

と、

標識 山頂まで 820メートル 

ならば と、 

ずっと 尾根歩き 

遠く 樋口山方向が 見通せます。

西米良村から 約1時間 走って 6合目 登山口へ

ずっと、 階段

1434.6

1318

5月1日へ続く

1406

1450

1547

967

私有林道 終点の 広い 駐車場
唐津からの方 久留米 ナンバーの方 この方は 「三方岳」でも お会いしました。

7時頃から 開始 です。


最初から ずーっと、左右 ミツバツツジ

1時間過ぎた 八合目から アケボノツツジ が咲いてます。

ここから 急坂 ヤセ尾根 時には ロープで 登ります。

青空で 良かった

向こう 市房山

山頂かと思われる ピークが 見えますが
まだまだ 先

 

岩を登っては、また下り  また、登り
ずっと、アケボノツツジ

9時前 山頂

さて、ここから 「樋口山」へ    主人と私は 「気合い」です。
ちと、藪こぎ有りで、 地図の読めない 私らは
山馬鹿さん そよかぜさんと  離れる訳には 参りません。

細尾根 だったり

踏み後のない 斜面だったり
アセビの中を 藪こぎ したり

緊張の連続でした。


またまた くだり

山頂では ありません、
こちらも 何度か ピークが

10時50分ごろ 山頂の看板には ほっと しました。

しばし ゆったり 食事時間

さて、 戻り です。
まだまだ、 気は抜けません  「気合い」です。

道がなくても 主人と私は 常に 後ろから 

登りの時とは また、違う 色合い

帰宅して 開いた 「宮崎県の山」の「石堂山」のページに

「下山後 帰り道に ‘天包山’ に登り 石堂山を眺めると感動が再び涌いてくる」

と ありましたが 

まさに  石堂山  そして、 樋口山 への 道を辿ると 嬉しいものでした。


西南戦争の由来 

明治十年二月 新政府に不満を持つ 薩摩藩の士族が 

「西郷隆盛」をおしたてて 「西南戦争」を おこした。

本村からも 旧領主の旧士族が 薩軍に米良隊として 

参加 一般市民も 夫役として参加した。

この 天包山一帯 山頂の官軍に対して 薩軍が攻撃して 戦いは 熾烈を極めた。

激戦の末弾丸尽きた 薩軍は 小川に退き 自ら全家屋に火を放って 

越野尾方面に移動した。

一方 西郷隆盛は 八月 可愛岳の戦いに敗れた後 

銀鏡 から 天包を 通って 村所に泊まり 薩摩に向かった。

終焉の日より 20日 前のことである。

本村の歴史上 米良の地で こうした 激烈した戦いは 

この西南戦争が 唯一のものであったと 言われている。