「木屋瀬宿」
2月21日

そよかぜさんが 今 「長崎街道」 歩かれています。


ここ 「北九州八幡 木屋瀬」は 「長崎街道」の「木屋瀬宿」 

 
ここの「長崎街道」の看板の前 

いつも、通るところ 


以前から なんで ここが 「長崎?」 と 思ったものですが

なかなか、車で 走りながら 駐車する事も 叶わず

今回 この機会に ゆっくり 歩いてみようと 思いました。


たぶん 

何週間か後 そよかぜさん ここを 通られます。

その時は ゆっくり 立ち止まることは 叶わないかも ですが、 

ごいっしょに 歩かせて頂ければと 願っております。

(*^_^*)   

これから 赤間への 追分道標をみて 興玉神社 へ 

次に 代官所跡 へ 


まだ、


東構口の方は 行ってませんが

雨が 激しくなりましたので ここらで 終了 です。 

約3時間 の お勉強 でした。


その中 先日 我が家の雛人形のお顔には なかった お顔 
高価な ここの おひな様は  説明通り

たった ひとつ

この「お気軽に」に 安心して 戸を 開きました。

入って びっくり

呉服屋さんだったとか

これは ほんの 一部
吉井町 や 日田市 の ひな祭りも 観光しましたが 
ここはここで また、 嬉しい 驚きでした。

今日は 平日 小雨で  人通りなく  淋しい道筋です。

だれもいません ひとり どうしようかと  思案 してましたら

三人官女の場合、中央には眉を剃った既婚婦人で、
口の中が黒く塗られているのはお歯黒をしているためです。

眉を剃って お歯黒をしています。

怒り上戸、           泣き上戸          、笑い上戸

知られる表情豊かな三人上戸

何となく このお顔で 納得

(*^_^*)

ここは 2階 この 左右 後ろにも 飾ってあります。

時代は 江戸前から 


雛人形の他にも 骨董品が いろいろ


ここで、かなり 時間がかかりました。

次は 


資料館へ
200円 撮影禁止 でした。

ここでも 一階から 二階 から かなり 時間が かかりました。



いっぱい 一杯 読んできましたが ???

シーボルト 吉田松陰 伊能 忠敬 の 名前も

次は 

もやいの家

資料館

船庄屋跡

伊馬春部生家

西講口跡

ここは ボランティアの 方の 詳しい説明が ありました。

私 ひとりでも ひとつひとつ 丁寧に 建物の 説明から 高橋家 歴史

そして、 伊馬春部 さんを 語って下さいました。




伊馬春部さん 

明治41年生まれ 昭和59年死亡 放送作家

わりと 私には近い 時代の方  しかし 知らない方だと

でも、 読んでいくと


「鞍手中学校 卒 (今の鞍手高校)」

なんと 娘達の母校 おまけに その 校歌の作詞 が

伊馬春部さん でした。

鞍手高校の校歌の 作曲は

高校野球の歌「栄冠は君に輝く」の作曲の 古関裕而さん です。



と、

お話していると その ボランティアの方の お子様も 鞍手校 だとか

思わず にっこり



しかし、

ここは 木屋瀬 北九州市 なのに なぜ 八幡高校ではないのか

と、

以前は 鞍手郡 木屋瀬町

昭和30年 八幡市に編入に なった と 



等々 話題は 盛りだくさん 

次に 


建物 外も 中も と 詳しい 説明 が ありました。

その時代の かなり 大きな問屋さんだったのだと


今は 北九州市の建物です。




さて、

次 「村庄屋跡」 「愛宕山護国院」  と 

案内板を読みながら 振り返りながら


大きな 梁 大きな 柱 

土間は まだ 土のまま

子供の頃 我が家も同じように裏まで続く 土間がありました。

今も 「梅本」さんの 表札が掛けてあり 代々 生活されています。

北九州市が 建物を保存して下さっているとのこと
見物される方が どかどか 入られてきて 大変だろうと

その 梅本さんが 
いろいろ、説明して下さいました その 近くに 幼いお孫さんが ちょろちょろ

「この子は 将来 ここに 住まないでしょう 」と  


そして 角を 曲がり こちらの方へ

「須賀神社」

付近に 立ててある 案内板に 目を通しながら

お参り です。

須賀神社

筑豊電鉄の「木屋瀬駅」付近に 立っている 案内板

全く 下調べナシで とりあえず ここで 歩く方角を 決めました。