10月31日
官兵衛 ゆかりの地

県立 博物館

名護屋城を中心に 半径3`圏内には 

全国から参集した大名達の陣跡が 約130ヶ所 確認されています。 

天主台

二ノ丸

大手門

呼子は何度も 来ていますが この地は初めてでした。

遊撃丸                       天主台

三ノ丸

東出丸

大河ドラマ 「軍師 官兵衛」

11月2日 放送は 「朝鮮出兵」 1597年 でした。


「名護屋城」

肥前名護屋城は 朝鮮出兵の拠点として 築かれました。

分禄 慶長の役 (1592〜1598)

官兵衛が城の設計を担当し、長政は総奉行に任命された
 
完成した名護屋城は、大坂城に次ぐ規模を誇りました。

城の周辺には、全国から集結した諸大名によって130以上の陣所が築かれました。

人口は数十万にも膨れ上がり、

その繁栄のさまは京をしのぐほどだったといいます。
 

1592(文禄元)年には、ここからおよそ16万の大軍が海を渡りました。

秀吉の野望は国内外に波紋を広げることとなったのです。

歴史を振り返るとき それは 日本史 であったり 世界史であったり

また、

紀元前の話であったり またまた、恐竜の時代であったり

それはそれは あまりに 広すぎて 深すぎて 


私の この頭脳では なかなか 理解できない内容です。



今回 黒田官兵衛 も 同様 

今までは 恥ずかしながら 「そう言えば 聞いたこと有る人」でした。


今回 信長同様に 少し その人物を知ることが出来ました。


少し 賢くなりました。



まだまだ 知らないことばかり ですが、、、。


(*^_^*)




 

弾正丸

本丸

本丸口

1587   秀吉 九州征伐
1590  秀吉 小田原征伐
1590   秀吉 毛利吉成と小西行長に、朝鮮出兵の準備を命じる
  黒田官兵衛 に名護屋城の縄張を命じ、
黒田長政に名護屋城普請の総奉行を命じる。
 
 1591  千利休 切腹
 1592 名護屋城 完成
  日本各地の大名が、肥前の名護屋に終結する。
名護屋に終結した日本軍は15万8000人に上った。

官兵衛も朝鮮入り
  豊臣秀吉による朝鮮出兵(唐入り)
 1593 豊臣秀吉は黒田官兵衛が無断帰国したことに激怒し、
登城を指し止めと切腹を言い渡した。

黒田官兵衛は、出家して剃髪し、「如水円清」と名乗り、蟄居謹慎。


淀殿が秀頼を出産
 1595 豊臣秀次 切腹
 1597 秀吉が第2次朝鮮出兵(慶長の役)を発動
小早川秀秋を総大将、黒田如水を後見人とする
14万の大軍を朝鮮半島へ派遣した。


黒田如水 52歳
黒田熊之助 死
 1598 8月 豊臣秀吉 死去
      12 第2次朝鮮出兵が終 黒田如水が58歳 
  栗山善助と母里太兵衛
櫛橋光と栄姫を無事に天満屋敷から連れ出す事に成功
黒田家の天満屋敷
 1600 6月 黒田長政 徳川家康 養女と再婚 
 1600 
   9月15日
関ヶ原の戦い わずか 半日で終える
  関ヶ原の戦いで黒田長政ほどの活躍した武将は居らず、
徳川家康の感謝は他に類を見ないものであった
   9月15日 大友義統が黒田官兵衛に降伏
  徳川家康は島津龍伯(島津義久)を許し、
黒田如水は慶長5年(1600年)11月12日に
徳川家康からの停戦命令を受け、薩摩討伐を中止して豊前・中津城へと帰った。
  慶長5年(1600年)10月15日に論功行賞を行い、
黒田長政に筑前52万5000石を与えた。
  黒田如水は、名島城を居城とせず、太平の世に合った新たな城を築くことにした。
  「筑前国那珂郡警固村福崎」に城を築くこ事に決め、
福崎を「福岡」と改称
 1604 黒田如水 死亡、
慶長9年(1604年)3月20日辰の刻(午前8時)、

黒田如水が59歳、 黒田長政が37歳

写真撮影 禁止


ゆっくり ゆっくり 歴史をたどりました。

次に

なかなか 修理する予算が無いのでしょう