黒田長政は、慶長六年(1601) 

福岡本城築城と同時に、国防衛の為 6ヶ所に築城 改築しました。


理由に 

黒田長政は 豊前中津から福岡へ国替えの時 

豊前で徴収した年貢を全て福岡へ持ち去った為 


後から豊前に入った細川忠興は激怒

以後 和解したものの 
隣国細川藩を仮想敵国  と見なしてしたと。




六 端 城

 若松城  黒田二十四騎の一人三宅若狭守家義

三千六百石と代官領一万石で城主
 黒崎城:  黒田二十四騎の一人井上周防守之房

二万石
を領して城主
 鷹取城: 黒田二十四騎の一人 母里多兵衛友信 が

一万八千石を領して城主となる。

益富城主後藤又兵衛基次が出奔した後

母里多兵衛友信は益富城主となり、代わって手塚孫大夫光重が

城主となる
 益富城:  黒田二十四騎の一人 後藤又兵衛基次 が

一万六千石を領して城主となるも出奔し、

鷹取山城主であった母里多兵衛友信が移り益富城主となった。
 松尾城:  中間六郎右衛門統胤 

二千五百石を領して城主となる
 麻底良城  黒田二十四騎の一人 栗山備後守利安

一万五千石を領して城主となる。